スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【映画感想】 エクソダス 神と王

今回は、先週末(2015年 2月14日)に観てきた映画、【エクソダス 神と王】の感想や考察を書いていきます。
旧約聖書の『出エジプト記』の映像化で、ほとんどの方はあらすじを知っているとは思いますが、細かい部分のネタバレ要素を含む為、観に行く予定で情報を全く入れたくない方は、観てから読むことをお勧めします。

今回の映画は、私が最近になって毎週聞いているwebラジオ【もてらじ】で紹介を聴いて、観に行くことにしました。
放送内で旧約聖書の説明などもされているので、前提となる知識が全くない人は、一度聴いてから観ると理解しやすいと思います。

あらすじは、先程も書きましたが、出エジプト記です。
随分前の映画【十戒】と同じで、モーゼが奴隷を率いて、エジプトから脱出し、紅海を割って逃げ延びる話です。


このエクソダスで印象に残ったのは、神の奇跡が全面に描かれているわけではないということですね。
観方によっては、アンチユダヤ教・キリスト教。アンチ聖書と読み取れなくもない話です。

というのも、神の奇跡が本当に奇跡なのかどうかがわからないように描かれている。
神の存在はモーゼにしか見えず、他の者からは一切見えない。
その為、神との対話シーンを傍から観るとモーゼの妄想の様に見える。

もし自分がその映画に登場する奴隷の一人だとすれば、独り言を大声で言いまくっている指導者の言葉を素直に信じるのかというと、正直、信用出来ない。
現代に置き換えてもそうだと思う。
自分の会社の社長が、社長室に篭って大声で独り言を言っているのを目撃し、その社長が現場に来てよく解らない命令をしたとしたら。
普通の人間なら、転職を考えるだろう。


では何故、この作品では皆がモーゼの言うことを聴くのかというと、モーゼが大声で独り言の様な討論をしている姿を目撃したのが、ヨシュアという人物だけだったからです。
ヨシュアという人物。
旧約聖書では、モーゼの後を継いでリーダーになるようなのですが、この作品に登場するヨシュアは、エジプト人の命令を聞かずにいつも問題を起こしている問題児。
その為、毎日の様にムチ打ちの刑罰を受けるのですが、『俺は痛みを感じない』的な事を言い、笑顔で鞭に打たれ続ける。
ヨシュアは不屈の闘志を持つ反逆者なのか、それともただの変人・変態なのか。
どちらとも受け取れるような人物として描かれています。

つまり、民衆はモーゼが独り言を言っている現場もみてないし、神と対話している事実も知らない状態でモーゼについていくわけです。
では何故ついていくのか。
それは、モーゼ自身が大勢の民衆を率いていく程のリーダーとしての素質とカリスマ性を有しているからです。
このモーゼの実力については、物語の前半部分で強く印象付けるような描かれ方をしています。

そんなモーゼが何をするのかというと、エジプトという国家に対してテロ行為で反撃します。
それも国家に直接テロをしかけるというよりも、民衆の生活インフラを破壊する事で、その原因を作っている政府に対する不満を高まらせるという方法で。


モーゼが地道に反撃を行なう一方で、この映画で神が何を行なうのかというと、モーゼが行なう小さな破壊行為では時間がかかり過ぎるとして、自然現象を装ってエジプト人の大量虐殺を行おうとします。
神のあまりの非道さに、『それはやり過ぎだろう!』と説得するも、全く耳をかさない神。
しかも神が力を使うのはこの部分だけ。

その後にモーゼが奴隷を大量に率いている状態でエジプトを脱出し、その後をエジプト軍が追いかける展開になります。
モーゼが追手から逃れる為、山の方向に行くのか平坦な道を進むのか、どちらが正解かわからない状態で神に答えを教えてくれと懇願しますが、ガン無視です。
中途半端な形で手助けして、肝心な時には手を差し出さない。

そして最後に行きこのルのは、勝った側の人間と、両陣営の指導者。
いつだって犠牲者は庶民。

この構図って、何か似てますよね。


独裁者だけが良い暮らしをしていて、民衆は貧しいままの共産主義の独裁国家。

その国に住む反組織のリーダーに、『政府を叩いて民衆を救え』と武器を渡す近代国家の大国。
武装した組織はその力を持って反政府運動を起こして、いずれ内戦に発展。

内戦が拡大して被害が拡大した所で、『民主化運動を助けに来た!』とばかりに自然な形で近代国家が武力介入。
様々な近代兵器による空爆を開始。
『ちょっとやり過ぎじゃない?』と言っても聞く耳を持たずにその国の民衆は大量虐殺される。

独裁国家が崩壊し、親大国の組織が実権を握り、大国所属の大企業が国の中心部に入り込んで利権を獲得すると、急にその国に興味をなくす大国
国内で戦後処理等の面倒くさいことが起こると、『あなた達の国だから』とガン無視を決め込む大国。

そして国が落ち着き、法整備等を行なう際にしゃしゃり出てきて、新たな戒律を押し付ける。
結果から観ると、国の指導者の考え方や戒律を変えるというだけで、力を持たない庶民が大量逆されたという事実。


この映画を通して私が感じたことは、指導者同士の考え方の違いで被害を受けるのは、いつも庶民ということです。
先程例を出した大国は、自分達が押し付けた民主主義や資本主義によって格差が生れ、結果として底辺層が独裁政権の共産主義時代以上の酷い暮らしをすることになったとしても、助けてはくれません。

映画の中では、ファラオと兄弟同然に育ったモーゼが奴隷出身とわかった時に、ファラオの母親がモーゼを処刑しろとファラオに進言します。
しかしファラオは反対し、モーゼを追放するだけに留めます。
またモーゼの身を心配し、護身用の剣を荷物の中に密かに忍ばせます。

この段階で、モーゼは神と対話するのではなく、ファラオと対話していれば、無駄な血は流れなかった可能性もあります。
しかしモーゼは紙と対話し、結果として神がファラオの大切なモノを全て奪っていったのです。
彼の子すらも。

この事が決定的となり、ファラオとは対話できない状況になってしまいました。

モーゼは、神を盲信・凶信する事を否定しています。
神の言葉を取り入れ、自分で納得するまで考えなくてはならないと。
この映画のモーゼも、もう少し兄弟愛を信じて神と格闘していれば、別の未来が待っていたのかもしれません。
関連記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://dorufurusu.blog33.fc2.com/tb.php/487-7d7a982a













上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。